
Side A
1.僕のために泣かないで
2.ディア・ワン
3.ビューティフル・ガール
4.ジス・ソング
5.シー・ユアセルフ
Side B
1.イッツ・ホワット・ユー・ヴァリュー
2.トゥルー・ラヴ
3.ピュア・スモーキー
4.人生の夜明け
5.愛のてだて
Additional Track
2004年にEMI/ダーク・ホースから再発された際に追加されたボーナス・トラック。
ティアーズ・オブ・ザ・ワールド
1981年のアルバム「想いは果てなく~母なるイングランド」で制作された楽曲だが、なぜかこのアルバムにボーナス・トラックとして収録されています。
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「ジョージ・ハリスン帝国」の記事より続く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1976年
1月5日 マル・エヴァンス、事件に巻き込まれ死去。
1月19日 カンヌで開かれた毎年恒例の国際音楽見本市MIDEMを訪れる。
1月26日 EMIおよびキャピトルとのレコーディング契約が満了、翌日A&Mと契約。
1月 「マイ・スウィート・ロード」の盗作問題をめぐる裁判が本格的に始まる。
4月20日 ニューヨークでモンティ・パイソン・チームの公演に飛び入り。
5月 アルバム「33 1/3」レコーディング開始。
6月 肝炎で体調を崩し入院。
9月7日 「マイ・スウィート・ロード」の裁判で「潜在意識における盗用」と判決。
9月 アルバム「33 1/3」のマスター・テープを予定より2ヶ月遅れでロサンジェルスに届ける。
9月28日 ニュー・アルバムの契約不履行でA&Mから訴えられる。
10月 A&Mへの違約金をワーナー・ブラザーズが負担することで解決、ジョージとダーク・ホース・レーベルはワーナーへ移る。
11月8日 アルバム「ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン」アメリカ先行発売。
11月15日 シングル「ジス・ソング」発売。
11月19日 アルバム「33 1/3」発売。
11月19日 アメリカのテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の収録、ポール・サイモンと競演(ポール・サイモンの回にゲストという立ち位置)。
(動画はすぐ削除されてしまう。「Here comes the Sun」と「Homeward Bound」を競演しました。)
11月20日 「サタデー・ナイト・ライブ」放送。
11月30日 BBCテレビ「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」に出演。
1977年
1月 オリヴィアとともにインドを訪れる。
1月10日 ビートルズとアラン・クラインの間で起こっていた訴訟がすべて解決。
1月24日 シングル「人生の夜明け」アメリカ先行発売。
2月 BBCラジオのインタビューを受ける。
2月3日 「33 1/3」のプロモーションでオランダ、ドイツ、フランスを訪問。(~6日)
2月18日 シングル「トゥルー・ラヴ」発売。
5月13日 アルバム「ザ・ビートルズ・スーパー・ライブ!」発売。
6月7日 ヘンリー・オン・テムズで開かれたエリザベス女王即位25周年記念祭に協力。
6月9日 パティーとの離婚が成立。
6月10日 シングル「イッツ・ホワット・ユー・ヴァリュー」発売。
7月17日 F1イギリス・グランプリを観戦。
8月 ラトルズのテレビ映画「オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ」での出演シーン撮影。
12月17日 自宅近くのパブで予告なしに演奏。
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「マイ・スウィート・ロード」が盗作?「マイ・スィート・ロード」の話になると、必ずと言って良いほど出てくる話題です。
シフォンズの63年の全米NO.1ヒット曲「ヒーズ・ソー・ファイン」の盗作だとして、同曲の出版元であるブライト・チューンズ社が訴えを起こしたのは71年3月のこと。
ジョージ側は、エドウィン・ホーキンス・シンガーズの69年のヒット曲「オー・ハッピー・デイ」に誘発されて書いたと主張。
「ヒーズ・ソー・ファイン」に関しては、ジョージ自身も「なぜ気が付かなかったのか?」と地団駄を踏んだといいます。
この裁判で原告側の格好のネタとなったのが、女性ポップ・カントリー歌手のジョディー・ミラーによる「ヒーズ・ソー・ファイン」のカヴァー。
ギターのストロークから始まるイントロといい「マイ・スィート・ロード」のアレンジで「ヒーズ・ソー・ファイン」を歌ったようなバージョンに仕上がっています。
71年6月発売のこの曲が録音されたのは「マイ・スィート・ロード」がまさにヒット中の同年2月。
この曲の製作陣が確信犯だったかどうかは定かではないが、これが両曲の酷似ぶりを見事に浮き彫りにする結果となった。
さらに、75年にまるで当てつけのようなシフォンズの「マイ・スィート・ロード」のカヴァーまで登場。
結局、これらの物的証拠に加え、元マネージャーのアラン・クラインが途中から原告側に寝返るなどして、76年9月に「潜在意識における盗用」であるとしてジョージ側の敗訴という結果に終わる。
元々、どのようにしてこの曲が出来たかという話ですが、ジョージがプロデュースするビリー・プレストンのアップルより2枚目となる「エンカレッジング・ワーズ」のセッションのときに、「ゴスペルってどう演るの?」とジョージに聞かれたビリーが、即興でキーボードでデタラメに歌ってみせたのが「マイ・スィート・ロード」のコーラス部分であったのです。
ビリー・バージョンの「マイ・スィート・ロード」を聞くと「ナルホド」と思えます。
また、ジョージの意図する本来のスタイルにより近いビリーのバージョンと「ヒーズ・ソー・ファイン」と聞き比べるとあまり似ているとはいえないでしょう。
いずれにしても、今だにクレジットは「ハリスン」のままだし、91年の来日時でも元気に歌っていました。
あの日本公演で私の聞いた「マイ・スィート・ロード」は紛れもなくジョージの曲意外何物でも有りません。
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A&Mよりの訴えと、突然のワーナー移籍肝炎で入院したジョージはA&Mとの約束の期日までにアルバムを作ることが出来なかった。
2ヵ月遅れでアルバムを完成したジョージに対し、A&Mは契約違反ということで訴えを起こす。
元ビートルズで「オール・シングス・マストパス」などのヒット作を持つジョージが来るならと期待していたA&M。
当のジョージはなかなか来ず、ダークホースレーベルより、とても売れるとは言い難い新人(スプリンター)やインド音楽(ラヴィの作品)などを販売させられ苦々しく思い、ジョージ自身もだんだんヒットが出なくなってきていたことの判断だろう。
ここで救いの手をさしのべたのがワーナーである。
ワーナーは違約金を肩代わりしてダーク・ホース・レーベルを引き取る。
が、さすがにワーナーも商売、売れないレコードを販売するジョージ以外のダーク・ホースに所属するアーチストとは契約せず、ダーク・ホースはジョージの作品をリリースするためだけのレーベルとなる。
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33 1/3 - Thirty Three & 1/3タイトルは当時のジョージの年齢とレコードの回転数を引っ掛けたもの。
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「ビューティフル・ガール」
パティーとアルバム発売後の6月9日に離婚。
この曲は後の伴侶となるオリヴィアへの感謝と信頼がうかがえる曲。
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「ジス・ソング」
「マイ・スウィート・ロード」の盗作問題の裁判を皮肉った作品。
クリップのディレクターはエリック・アイドル。
ロン・ウッドが出てたり・・ロンのファンは観ない方が・・
アルバムよりの第一弾シングルだが、その後ベストアルバムには入らず、また日本公演でも演奏されることは無かった。
当時の語らずにはおれなかった憤りも、時がたてば冷静になり、それほどでもと思ったのだろうか?
ただ、自身の汚点を穿り返さずにはおれなくなる曲だけに、好きになれなかったのだろう。
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「人生の夜明け(クラッカーボックス・パレス)」
本国イギリスではシングルとしてリリースされなかった。
ジョージが少年時代に敬愛していた俳優・コメディアン・歌手、ロード・バックリー(Lord Buckley)に捧げた曲。
ジョージは、ロードのマネージャーだった男性にカンヌで出会い、ロードがロサンゼルスに持っていた家が「Crackerbox Palace」と呼ばれていたという話を聞いて、それをタイトルにした[。
歌詞に登場する"Lord"という言葉は、「主」とロード・バックリーのダブル・ミーニングと言われている。
本国イギリスではシングルカットしていないがクリップは制作された。
クリップのディレクターは「ジス・ソング」と同じくエリック・アイドル。
乳母車を押しているのは、エリック・アイドルと一緒にラトルズでジョン役をしているニール・イネス、以前書いた「ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンド」の中心人物。
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ラトルズビートルズを題材にした映画(ピーター・フランプトンらが出ていた「サージェント」)などには辛口のジョージだが、ラトルズの「オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ」には喜んで自ら出演。
変装をしたレポーター役で、テレビを見ていても判らなかった人が多かっただろう。
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ジョージにとっては窮地で最悪の時期だった。
ゴシップの度合いから言えば兄貴分のジョンより上をいくんじゃないのか?
「カム・トゥ・ギャザー」の盗作問題(こちらは歌詞も完全にパクリ)より「マイ・スウィート・ロード」のほうがビートルズ史でも扱いが大きいし、友人に奥さんを取られたり。
それでも破天荒のイメージはジョンにある。
ロッカーとしては「負け」なのだろうが、人徳とすれば「勝ち」なのだろう。
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アルバム自体の出来は良いです。
前作と同じく宗教色は感じません。
ジャケットのジョージのアメリカ建国200周年のサングラスは、当時「いかがなものか」と疑問でした。
時がたって、1976年はジョージが33歳だったと即答できるのに気づき、今では懐かしさも手伝い、好きなジャケットになっています。
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グッ……お金が……っ!
【2011/03/04 08:35】
URL | いずき #0TN6pzxw [
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いいですね!「クラッカーボックス・パレス」なんて、「この人、悟っちゃってるんじゃないか?」な~んて思わされましたっけ…。このジャケットからつい「ファースター」を連想しちゃうんですが、収録されてませんね。クイーンのアルバム『シアー・ハート・アタック』に「シアー・ハート・アタック」が収録されていないことと…ぜんぜん、ちがいますね…!。
それにしても、33歳と4ヶ月…若いですね。(むかしはオトナのジョージだと感じていたのですが…)
【2011/03/04 12:33】
URL | 赤井川塾 #H6hNXAII [
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>いずきさん
がんばってコンプしてください・・
【2011/03/04 12:40】
URL | マスター #- [
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>赤井川塾さん
いや、絶対悟っています。
それぐらい普通の33歳のしていない経験をしてますから・・まあ、ビートルズだったという経験は異常すぎましたし
ジャケから「ファースター」の連想は、やはり後追い世代なんですね・・
記事でも書きましたが、アメリカ建国200年のサングラスがインパクト強かったというか、当時世界中建国200年のムードで沸いていたんですよね・・特にアメリカの洋楽界。
で、ジョージのグラサンにダサさを感じました。
【2011/03/04 12:48】
URL | マスター #- [
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私もこのところ、ジョージ作品を少しずつ集めているのですが、この「33 1/3」はかなり気に入った方です。「ジス・ソング」も「人生の夜明け」も実に良いです。PVもとても楽しいですし。
「ヒーズ・ソー・ファイン」は確かに「マイ・スウィート・ロード」にかなり似ていますね…しかし、ジョージに限らずビートルズ、そしてその他のミュージシャンもみな、それぞれ先人の優れた作品や試みを模倣したりすることで新たな世界や表現を創り上げてきたわけで、ジョージの「マイ・スウィート・ロード」に対するスタンスや意識もそういうことだったと思います。それをことさらに裁判沙汰にするような側の方に、何らかの悪意の存在を感じます。
マスター様作成の年表にもあるように、ジョージの生涯のなかでも、特に不運やトラブルの重なった時期だったようですが、そういう時にラトルズ出演やユーモアたっぷりのPVを作っているところに、逆境を笑い飛ばして乗り切ろうとするジョージの底力を感じます。
【2011/03/06 22:19】
URL | amanoiwato #uoSKjgR6 [
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こんばんは、amanoiwatoさん。
僕も非常に好きなアルバムです。
盗作問題は、「マイ・スウィート・ロード」は大好きな曲ですが「ヒーズ・ソー・ファイン」はどうでもいい曲なんで、僕にとってはなんのショックでもない話題ですから、当時ジョージを応援してました。
ジョージを知れば知るほど、自分の愚かさを見透かされているような感じのシニカルなコメントを発していたりします。
今、割と色んなことに幸せを感じていられるのはジョージのおかげと思っています。
【2011/03/06 22:46】
URL | マスター #- [
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