
「おっぱい神社」として有名な「軽部神社」。
なぜ「おっぱい神社」として有名かは後述。

鳥居

案内版
軽部神社(王子の宮)の由来
建武元年(1334)福山城主大江田氏が、紀伊の国牟婁郡熊野(三重県熊野市)より、速玉男命。伊弉諾尊。の三神を移して軽部山の嶺に社殿を創立して祭り、祈願所とした。
その後、建武3年(1336)足利直義が、福山城の大江田氏を敗り、社殿も焼失した。
寛正3年(1462)深井城主加藤正倫4代の孫正長、社殿を旧跡に建てて三神を祭り、社号を若一王子権現と称した。
その後、幸山城主石川氏が祈願所として祭典を行なってきたが、天正3年(1575)兵火によりことごとく焼失した。
毛利輝元の祈願の時、信徒、氏子が集まり協議して、天正4年(1576)社殿を再興し、以前からの三神に、天照大神、国常立命の二神を併せ社名も五社王子権現と改めて祭っていたが、この宮が山頂の、山陽道を見下ろす位置にあり、通行人や、参勤交代の諸公に、神の戒めがあるということで、延宝6年(1678)現在の位置に移転造営した。
明治2年(1869)社号を軽部神社と改める。氏子は普通「王子の宮」(王子様)と言う。
乳神様 王子の宮
境内に「垂乳根の桜」(たらちねの桜)という枝垂れ桜(しだれ桜)の大樹があり、春にはその美しい桜のある軽部神社は、近郷より詣でる人が多く、参道には露店が並び、大変な人出で賑わったという。
そしていつの頃からか「垂乳根の桜」のある王子の宮は、婦人の乳一切の守り神として、信仰されるようになった。
乳の形の「絵馬」を作り奉納すれば、「乳の出ない人は乳が出るようになり、すべての乳の病を癒し、人の命の基である乳の出る神様として、霊験あらかたな事で知られ、今でも参拝客が多い。 平成5年7月25日 清山会(案内板より)

手水舎
手水舎の水は沢から引かれている。
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左に見えるパイプが手水舎へ続く。


実は、ここから沢づたいに「軽部山」への登山口となっています。

境内社

社務所の前に「垂乳根の根株」が。

垂乳根の根株

案内板
垂乳根(たらちね)の桜の根株
垂乳根の桜は、枝垂れ櫻としては、大変立派で、枝は、大きく四方に広がり、枝の先は地面につき、風でゆれる度に境内を大きく掃き清めるほどの、見事な大木であったという。
特に花見の頃は近郷近在から大勢の見物人で賑わう程有名であった。
児島虎次郎画伯(明治14年~昭和4年。倉敷大原美術館の西洋名画の収集者。日本印象派の先駆者)の「垂乳根の桜」の屏風絵と、油絵は、現在も大原美術館に収蔵されている。
昭和15年頃(1940)樹齢およそ四百年くらいで、枯死した。根株を保存する為に、建物の軒下に取り込まれ現在に至っている。(案内板より)
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「たらちね」⇒「たれちち」・・・・シャレからきた、おっぱいの神様?

拝殿


拝殿内に多く掛けられた、おっぱいの絵馬。
元々地元の氏神様であったためこの風習は地元民くらいしか知らなかった。
しかし、かつての清音村が村おこしのため、人気テレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に応募し、番組の企画として村おこしが行われ、この中で軽部神社の風習が紹介され、全国的に知られることとなりました。

本殿


ムクロジ
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軽部神社創建
南北朝時代・建武元年(1334年)との言い伝えがある。
祭神
国常立命、伊弉諾命、天照大神、事解男命、速玉男命
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軽部神社絵馬奉納キットが販売されています。
吉備路商工会のページ
「
軽部神社絵馬奉納キット」