「
和霊山」より続く。
「幸山城」は山頂に「
福山城」のある福山の北にせり出した形の尾根の頂部にあります。
クリックで大きく見れます。

「
和霊山」の駐車場。
ここまで車で行けます。


到着。





ここで知り合った、歴史好きのオジサン。
偉そうに語ってますが、このオジサンの受け売りが大半。
色々教えてくださってありがとうございました。
見晴らしのいい山頂で、岩に腰かけ、いろんなことを教えて下さいました。
先の「
猿田彦神社」の井戸のマリモなんかは、このオジサンに教えてもらったこと・・・
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幸山城(こうざんじょう)延慶年間(1308年~1311年)前後に、庄資房によって築城されたらしい。
資房は、元弘の変では北条仲時に従うも、安藤元理らと共に元弘3年(1334年)近江の番屋で討ち死にしたとある(近江番場宿蓮華寺過去帳)。
庄資氏が継いで在城したが、庄資政以降、応永年間(1394-1428)には、石川氏へと城主が替わった。石川氏は備中守護・細川氏の被官となり、備中南部で有力な勢力を形成している。
戦国時代には備中の覇権は毛利氏と結んだ三村氏のものとなり、石川氏も三村氏の縁戚となってその一翼を担うようになる。
永禄10年(1567年)の明禅寺合戦(三村氏と備前宇喜多氏との合戦)では、幸山城の石川久智は5000の兵を率いて三村氏一万余軍に参加するも、備中勢は総崩れとなり久智は戦傷が元で死去する。
元亀2年(1571年)、尼子氏が備中に南下し幸山城にも攻め寄せた。
このとき城主石川久智の子・久式は毛利勢として九州へ出陣しており、尼子氏に屈する。
その後、毛利氏の援軍を得て幸山城を奪還するが、やがて毛利氏と三村氏が不仲となる(備中兵乱)。
毛利氏が三村氏の松山城を囲むと、久式は義兄・三村元親を救援をするため、松山城へ援軍を送る。
しかし、毛利氏は松山城を落とし元親は切腹、久式も自刃した。
その後、幸山城には清水宗治が入り、天正3年から数年在城の後、備中高松城に居を移しています。
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この「幸山城」と「和霊神社」のルートの途中にあるのが「八畳岩」。


東屋の右にある壁がそうです。

見上げたところ。
せっかくなんで登ってみます。

細いロープがついてて、登れるようになっています。

なかなかの眺望でした。