
Side A
1.愛に気づいて
2.ザッツ・ザ・ウェイ・イット・ゴーズ
3.アイ・リアリー・ラヴ・ユー
4.グリース
5.ゴーン・トロッポ
Side B
1.ミスティカル・ワン
2.アンノウン・ディライト
3.ベイビー・ドント・ラン・アウェイ
4.オ・ラ・イ・ナ・エ (ドリーム・アウェイ)
5.サークルズ
2004年にEMI/ダーク・ホースから再発された際に追加されたボーナス・トラック。
ミスティカル・ワン[デモ]
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「
想いは果てなく~母なるイングランド~」よりつづく。
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1982年
1月 「キャッシュ・ボックス」誌で1981年度ポップ・シングル部門男性歌手第10位。
2月9日 バングラデシュ難民救済コンサートの貢献でロサンゼルスにてユニセフより感謝状が贈られる。
3月4日 この日からオーストラリアで長期休暇。
5月5日 フライヤー・パークにてアルバム「ゴーン・トロッポ」のレコーディングに取り掛かる。
6月20日 ロンドンのウェンブリー・スタジアムでサイモン&ガーファンクルの再結成ライブへオリビアと出掛ける。
6月 ハマースミス・オデオンのライ・クーダーのライブにある晩はリンゴ、別の日にはポールと出掛ける。
8月27日 アルバム「ゴーン・トロッポ」レコーディング終了。
10月 契約上の問題から「コンサート・フォー・バングラデシュ」のホーム・ビデオ発売延期。
10月27日 アルバム「ゴーン・トロッポ」アメリカで発売。
10月28日 家族でニューヨークへ。
10月29日 シングル「愛に気づいて - Wake Up My Love / グリース - Greece」イギリスで発売。
1983年
2月7日 シングル「アイ・リアリー・ラヴ・ユー / サークルズ」アメリカで発売。
3月26~27日 ロングビーチでアメリカ西グランプリ観戦。
6月6日 ソ連の「ソビエツ・カヤ・ロシア」紙がジョージの音楽的才能と第三世界への関心を賞賛する。
7月25日 ケンジントンのクイーンズ・ゲイトにあるゴア・ホテルのバーでポール、リンゴと会う。
9月12日 BBC1のテレビ番組「フィルム'83」に自宅からビデオ出演。
10月 「コンサート・フォー・バングラデシュ」のホーム・ビデオがイギリスで発売。
10月13日 リバプール市議会がビートルズにリバプール名誉市民の称号を与えることを全員一致で可決。
11月19日 バッドフィンガーのトム・エヴァンスがサリー州の自宅で自殺。享年36歳。
12月1日 ロンドンのトーチェスター・ホテルの8階に滞在するヨーコのもとにポール、リンゴとともに集まり、アップルの業務に決着をつけるため8時間に及ぶミーティングをする。
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ジョージはこのころのインタビューなんかで、よくパンクや新しいタイプの音楽を軽蔑する発言を繰り返していた。
が、このアルバムにおけるドラム・マシンの導入やシンセサイザーの多用などといったサウンド・アプローチからは、微々たるものではあるが時代を取り入れている部分も見受けられる。
しかし、考えてみればFAB(ビートルズ)だったころ、誰よりも新しい「音」に敏感だったのはジョージだった。
でも、このアルバムがファンの中でも評価が低いのはファンがジョージに求めていたものが「慈愛の輝き」のような「優しさ」だったからだろう。
「新しさ」を取り入れたことが「仇」となった。
とはいえ悪い作品では無いと思う。
プロモーションも殆ど無くレコード店に並んでいた本作。
なにより、ジョージの「やる気」が失速したことが原因だろう。
その分ジョージの「遊び心」が多く、聴けば聴くほど「味」があるのですが・・
共同プロデューサーを務めたマクドナルドはこのアルバムが発売された当時「ジョージの音楽を理解できるのはファンだけだと思う。ジョージは自分の好きなようにやっているだけなのだから」というコメントを残しています。
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アルバム・ジャケットヘンテコな派手なジャケット・デザインおよびアートワークは、かつてのハリスンの作品「主人公レッグス」(アルバム「ジョージ・ハリスン帝国」収録)のモデルにもなったボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドの”レッグス”ラリー・スミスの手によるものである。
(何度も言うが、ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドは「マジカル・ミステリー・ツアー」のストリップシーンで演奏しているビートルズには関わり深いバンド)
ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドの「おいらは町の宇宙飛行士 - Urban Spaceman -」はポールのプロデュース。
ラトルズのニール・イネスもいたしね。
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サークルズ収録曲の中で興味深いのは「サークルズ」。
ビートルズ・ファンにはなじみの曲で、ビートルズ時代に作り、未発表だったもの。
「ゲット・バック・セッション」なんかでも聴ける。
前々作の「慈愛の輝き」の中の「ノット・ギルティー」と同じく、かつてのマテリアルを今回も使用。
ビートルズバージョン
携帯で観る。・・・・・・・・・・・・・・・・
僕はジョージだ、ビートルじゃない1983年1月27日、「サン」紙が「サンデー・タイムズ」紙の記事の抜粋を転載。
「僕はジョージだ、ビートルじゃない」という見出しの記事で、ジョージはマスコミの対応について、
「人間としての僕には興味ないんだ、興味あるのはビートルズだけ。"SGT.PEPER"で僕がどんなギターを弾いたとか、そういうくだらないことさ」
と語った。
ジョージの言葉どおりビートルズ神話は尽きることなく、1983年「アビーロード・スタジオでビートルズを観よう-ビートルズが1962年から1969年にかけてレコーディングを行った第2スタジオの魔術を直に感じてみませんか」というツアーがEMIによって計画される。
EMIは第2スタジオを一般開放し、75分のビデオ「THE BEATLES AT ABBY ROAD」を上映。
このビデオには、一週間前に発見されたばかりの「How Do You Do It ?」「Leave My Kitten Alone」が含まれていた。
こういう企画でビートルズのアウトテイクが数多く発見され、後の「アンソロジー・プロジェクト」へ繋がるのではあるが・・
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所属レコード会社のワーナー・ブラザーズも宣伝に力を入れようとはしなかったた。
アメリカではビルボードのアルバムチャートでは最高108位と失敗。
「キャッシュボックス」誌では、100位圏内の最高位67位にランクされたが、解散後、最も低調なチャート・アクションだった。
本国イギリスや日本に至ってはチャートインすることさえできなかった。
このアルバムが注目されることなく発表されたあとジョージは本業を半ば引退した状態となり、副業の映画制作や趣味の庭仕事などに没頭するようになっていく。
ジョージが、自分がかつてビートルズであったことを受け入れ「史上最大のカムバック」といわれた大ヒット「クラウド・ナイン」へは、ここから5年の月日を要する。
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愛に気づいて
ザッツ・ザ・ウェイ・イット・ゴーズ
大好きな曲です。何回聴いてもいい。
ミスティカル・ワン
エリック・クラプトンに捧げた曲。
サークルズ
ビートルズバージョンから、かなりの進化。